People

社長からの転身/「街道の駅赤馬館」館長 長尾洋二さん

経営者から赤馬館館長へ

長尾館長は第5代館長の前に第2代館長もお努めになっていたのですね。どのようなきっかけで館長を引き受けることになったのですか?

長尾さん:
長い間がむしゃらに仕事に打ち込んできましたが、縁あって宗像市広陵台に家を構えることになりました。直後に単身赴任し一時は赤間を離れていたのですが、退職後に地域の役員や赤間地区コミュニティの部会員を引き受け、その流れで「赤馬館の館長をしてもらえんね?」という流れになりました。
地域貢献したいという思いはありましたので、引き受けることにしました。

赤馬館がオープンして半年くらいの頃と伺いました。

長尾さん:
そうです。当時は、赤馬館はできたばかりで、事業展開もこれからといった時期でした。私は、「赤馬館の存在価値は事業を成し遂げてこそ」と考えていましたので、計画の実現を目標に奮闘した思い出があります。

今は赤馬館オープンから約6年半が経過して、地域にも浸透してきていると思うのですがいかがですか?

長尾さん:
そうですね。新しくやりたいことや課題はたくさんあります。むしろ、やりたいことがまだあるから館長を引き受けたということもありますね。コロナウイルスによる影響などもまったく予想外でしたし。

やはりコロナ禍の影響は大きかったのですか?

長尾さん:
はい。しかし、マイナスの面ばかりではないと思っています。「一度落ち着いて振り返り、ペースを整える時間をもらった」と考え、前向きにとらえています。

昨年(2020年)は赤間商店組合の設立がなされましたが、これも前向きな動きですね。

長尾さん:
赤間宿通りの商店主15人がまちの賑わいづくりをしたいと立ち上がり、商店組合を結成されました。「桜めぐり」や「あじさいまつり」など、赤間宿ならではの楽しいイベントを企画されています。このような動きを後押ししてサポートするのが赤馬館の使命だと思っています。

アシックス創業者「鬼塚喜八郎」からの教え

長尾館長はとてもエネルギーにあふれている行動派にお見受けしますが、社会人時代の影響ですか?

長尾さん:
そうですね。社会人時代に染み付いたものかもしれません。私は、スポーツ用品ブランドの㈱アシックスに勤務していたのですが、その際、㈱アシックスの前身である「オニツカタイガー」の創設者、鬼塚喜八郎社長の精神や姿勢に深く学ぶことがありました。

鬼塚社長と行動を共にされていたのですか?

長尾さん:
はい、九州に来られた時はかばん持ちなどをしていた時期があり、すぐ近くから鬼塚社長の言動に触れることができました。

心に残っている言葉はありますか?

長尾さん:
「動機は善なるや、私心なかりしか」という言葉をよく使っておいででした。つまり、仕事をする動機は、金儲けや自分の私利私欲なのか。それとも人のためや世の中のために役に立ちたいのかということです。

なるほど、とても深い言葉ですね。

長尾さん:
動機が私的なことだと小さな事業しかできない。世のため人のための仕事がしたいということが動機だと、世の中が自分を成功に導いてくれるということです。この言葉は、私の人生の中にずっと残っています。

そういう教えがご自身の中にあったので、地域貢献を実行しようという考えになられたのかもと感じました。

長尾さん:
そうですね。㈱アシックス退職後、ソフトバンクホークスのグッズ関連企業や、バスケットボールチームのライジングゼファーフクオカで事業をしていた時も、社会貢献や地元とのつながりは常に心にとどめていました。

地域になじみ、赤間宿の魅力を磨くこと

そんな多彩な社会経験を持つ長尾館長から見て、赤馬館の展望はいかがですか?

長尾さん:
まずは、地域になじむことだと思います。それから赤間宿の魅力を磨くこと。赤馬館は「着付け体験」など魅力的なコンテンツを持っていますから、着付けを体験するだけでなく和装で散歩したくなるようなエリアにしていくことが必要だと思います。

観光としてはいかがですか?

長尾さん:
観光については、集客施設とのコラボレーションなどを企画して、現在精力的に動いています。旅行雑誌やインターネットでの露出を増やし、より多くのお客様に来ていただき、リピートしていただけるよう仕掛けたいと思っています。

今後、赤間宿が魅力的あふれるエリアになるのが楽しみですね

長尾さん:
はい、このような取り組みに多くの人を巻き込み、次世代へも志が引き継がれるような体制づくりもしていきたいと思っています。

本日はたくさんのお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

長尾さん:
ありがとうございました。ぜひ、多くのお客様にお楽しみいただける赤馬館にしますのでご期待ください。

参考「赤間宿」

 赤間宿は、物資の輸送ルートとして戦国時代から利用されていた。黒田長政が参勤交代を始めた1603年に宿場が設けられ、約500メートルの南北に傾斜した町筋が形成された。

 唐津街道は豊前小倉(北九州市)から肥前唐津(佐賀県唐津市)に至る道筋であり、赤間宿(福岡県宗像市)は参勤交代の北部ルートのうち、若松・芦屋方面に向かう街道と、木屋瀬方面へ向かう街道の分岐点にあたり、交通結節点として要衝の役割を果たしていた。

 また、漁港がある芦屋・波津(はつ)・鐘崎・神湊(こうのみなと)・勝浦・津屋崎・福間の七浦から三里の距離であることから「七浦三里」といわれ、商業・流通の中心として発展していた。

 町筋には町茶屋、問屋場、旅籠、商家などが立ち並び、最盛期には200軒ほどの町屋が軒を連ねて賑わい「赤間に行けば花嫁道具が一式揃う」と称されるほどであった。

 建物は、間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」式になっている。これは当時間口三間半で一戸分の税となっていたためである。また、通りに面した家の軒を低くし、2階の窓を小さくした甲(かぶと)造り屋根も特徴であり、現在も鏝絵(こてえ)の残る町屋とともに残っている。

 豊臣秀吉(1587年7月泊)や石田三成(1598年7月泊)など多くの要人が赤間宿を往来した記録があり、幕末期には三条実美らが五卿西遷の折に1865年1月から1か月近く滞在して高杉晋作や西郷隆盛などと会談するなど、赤間宿は日本史上でも重要な役割を果たした場所であるといえる。

取材レポート:村上泰介

記事をシェアする