Thing 大島

コラム 塩爺/島から見た宗像(前編)

塩爺 河辺 健治
1947年10月24日生まれ。大島で生まれ、大島で暮らし、ここで終わる。
宗像高校、放送大学卒。元海上保安官、元漁師、元役場職員、元大島村長。
現在塩爺

第一話:立ち位置による視点

宗像の母なる川、釣川を下ると江口の浜に出る。ここで目の前に雄大な玄界灘が 姿を現し、果てしない海原が…
続かない。視界を遮って横たわるのが、わが大島である。北斗の水汲み公園から 北斗七星が玄界灘の水を汲み上げると言うが、柄杓は大島をかすめる。有名に なった沖ノ島も、その島陰となる。存在をアピールしまくる梶目の大島と 、隣の地島が展望の殆どなのである。

さて、視点を大島に移そう。陸岸を見ると、左側には宗像のシンボル四ツ塚が、屏風のように北九州圏との境を作っている。真ん中奥に新立山、許斐山などの低い山が見える。右方向を見ると在自山など宮地嶽に続く山、手前には渡半島、すでにお隣り福津市である。境目の勝浦から左の鐘崎まで、せいぜい六十度ほどの間である。この中に、宗像像市本土側は収まる。かつて宗像郡であった津屋 崎渡半島まで含めても、せいぜい九十度に収まる。

もっと島からの展望を見てみよう。左は北九州市から山口県、真ん中奥には英彦山、右側には福岡市が見える。島の裏側からは壱岐や対馬そして我らが沖ノ島が佇む。まさに福岡県北部はおろか、九州北部から遥か大陸を目指す航路が見えるのである。普段から広大な視界の中に暮し、その環境がもたらす、遠い海の彼方を目指した先人の心意気を感じる。その手段として海を渡る船を大昔より操り、自在に高速道であった海路を駆けたのである。先祖たちの命懸けの航跡に尊敬の想いを抱き、 その子孫である事の誇りを忘れたくない。

更に 素晴らしい日の出と月の出を見ることが出来るのが、ここの特徴である。九州北部沿岸では夕日は海に沈むが 朝日は背後の陸地から昇る。島からの海に映える朝日は見事だ。最近では中津宮の参道を朝日が照らす光景が 日出ずる道として話題となっている 。月の出も、きらきらと輝く海が妖しく美しい。こんな素敵な大島に泊り、ゆったりと島時間を楽しむことをお勧めしたい。

第二話:島に暮らす

大島は、4キロの四角い枠にはまる。コンビニも信号もない島から来た異星人に見えるのか、宗像の人たちから様々な質問を受ける。他の市民にはない問いであろう。

曰く、雨で船は出るのか?ここまでどうやって来たか?車はフェリーで持って来るのか?帰りの船はあるか?時化ていないか?泊まる所はあるのか?お巡りさんは居るのか?医者は居るのか?ご心配なく、大概の時化でも船は通うし、海上タクシーもある、緊急時にはドクターヘリも来る。何せ福岡県8つの有人島では一番大きく位置的にも有利な所なのである。

他の島から来た人が、こんな大きな島なら何でも出来る、と羨ましがった事もある。もっと大きな長崎五島の人は、こんなに空港や高速道や、新幹線に近く便利な島なのに、なんでみんなは住まないのか?と不思議がっていた。

近年あちこちの島が、橋で結ばれて便利になった。長崎県を例にしてみよう。西の端の生月島から橋を渡ると平戸島に続く、更に進むと長崎県である、本土に着いたと思ってしまうが、只の九州島なのである。どんどん進んで我らが福岡県を抜けると山口県、本州である。しかし、である。ここさえも島なのだ。広大な北海道も島なのである。

なーんだみんな同じなんだ。その先端の少子化高齢化過疎化を、いち早く体感しているのが、我々のような小さな島の住民である。尊敬に値すると思いませんか?

少し沖の海原に目を向けてみよう。海北道中と呼ばれ大陸への航路であった海域である。大昔アジア大陸と日本は、繋がっていたという。その為か、大島から朝鮮半島に至る対馬海峡は最深120mしかない。

深い日本海をロシア沿岸から1500kmを吹き渡った北東のうねりは、急激に浅くなる玄界灘で盛り上がり高波となる。これがいわゆる一に玄界と呼ばれる荒海である。

このただ中にある沖ノ島には、次回触れる事として一先ず、さようなら。

後編に続く

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