Culture

コラム 塩爺/島から見た宗像(後編)

塩爺 河辺 健治
1947年10月24日生まれ。大島で生まれ、大島で暮らし、ここで終わる。
宗像高校、放送大学卒。元海上保安官、元漁師、元役場職員、元大島村長。
現在塩爺

第三話:沖ノ島

大島から50キロ北に有るのが、沖ノ島である。大島と本土が7キロであるのに比べると、遥かな沖合である。ろ漕ぎ船の時代、早朝に大島を立ち、帆をかけて夕方着いたという。エンジンが付いて、やがて大島沖ノ島間が4時間を切った時は、皆が驚いたというが、今や1時間も掛からない船も多い。昔は往復だけでも大変だったから、漁は泊まり込みで行われた。神様の島との思いは強く、留守家族は大島での葬儀には参列しなかった。今でこそ日帰りの漁が増えたが、それでも大島の漁獲高のかなりの部分が沖ノ島の漁場でもたらされている。物心両面で沖ノ島の存在は重要なのである。

海中より屹立するこの島に初めて向かいあった時、ここには人知を越える何らかの存在がある、と高校生の私でも感じたものである。その日から3日間、中学生の弟と共に沖津宮の社務所に泊まり込んだ。島守りは佐藤市五郎氏。あの司馬遼太郎「坂の上の雲」に登場する、日本海戦の目撃者である。家とは遠縁に当たり、漁に連れてきた父の計らいで、次に船が沖ノ島に来るまで預けられた。すでに70代半ばの小柄な彼が、沖津宮までの急坂を飛ぶように登り、体力盛りの僕らを遥かに置き去った白装束の後ろ姿は、鮮明に記憶にある。

日露戦争前、沖ノ島が軍事上重要なポイントとなる事を予想した軍は、島に灯台のような目標を作ろうと考え、急きょ灯竿という、高い場所で油を燃やし夜間でも島の位置を知らせる灯台施設を建設した。日本海海戦僅か1ヶ月の完成と聞く。この燃料油を運搬する御用船を、うちの祖先が行なっていたため、今でも僕の家の地名をトウカンと呼ぶなど、個人的にも関わりの多い所である。

この島が、世界遺産の価値あり、と最初に明言したのは、あの吉村作治氏であろう。2002年頃の事だった。その時の、宗像地区市町村長達の興奮の面持ちは忘れない。それが遂に現実になろうとは、その時には思いもしなかったムナカタの大躍進である。

第四話:宗像は一つ

大坂峠の鬱蒼とした道が下りにかかると、やがて海が見える。ここの展望は江口の浜と違って、自己主張の強い大島も、邪魔をせず右に避けている。相の島も左によけているために、はるか大陸へと続く玄界灘の大海原を感じることが出来る。そのまま道を下ると勝浦集落の外れへと繋がる。かつてはこのあたりまで入り江になっていたといい、船繋ぎ石が残されている。荒波を避けるには最適の錨泊地である。

万葉人は、この峠を通って来たと宗像大社の境内の石碑に歌が刻まれている。
しかも時の人、大伴の旅人の妹の歌である。大社に行かれたら、ぜひご覧頂きたい。

海を駆けた宗像族が、この景色を見ながら眠りたいと望み、世界遺産となった多くの古墳が近くにあるのも、自然な思いだとの気がする。近くの宮地嶽神社の石室古墳も、宗像氏との深いかかわりを言われている。つまり、この一帯が古代宗像族の中心地であったと分かる。かつてこの新宮から芦屋に至る海岸の漂着物は、宗像大社に所有権が有ったという。宗像大社を要とする地域であったのだ。

「しこふむ」。九州場所ではない、新宮、古賀、福津、宗像の頭文字である。
この辺りの行政が協力して、地域を振興させようとの連携団体の名前である。現在でもこの周辺地域の連携は行われている。この地域は、一市三町一村の五つの行政区で構成されていたが、平成の大合併の際二つの市となった。

それぞれが違った魅力を持った市として、独自の進化を遂げていて、切磋琢磨する様子も、好ましいものである。しかし、「宗像の心は一つ」と言われていた当時から言えば、私の意識は先行合併中、道半ばである。いまさら国が進めた平成の大合併に物申す気はない。まして合理化第一のそれを進めよとは、言わない。

だが、この地域の歴史を考える時、かつての大宗像に、心を一つにして盛り上げよう、と考える政治家は出ないのかと、真っ赤な海原の夕陽を見つめながら、思うのである。 

終わり。

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